こんばんは、年間300日スーツで過ごす女、バリキャリ乙女のイシイド マキです。
イシイドは怒っていた。
何故、2月は28日までしかないのか。
イシイドは営業職で、3月決算のため1~3月は破滅的に忙しい。
いや、忙しいよりも精神が崩壊するくらい追い込まれるのだ。
何故だ。
ただでさえ目標が多いのに、この稼働日数。
2月がせめてあと1日あれば。
いや、普通だったらまだ2日もあるはずなのに。
2月を28日までと決めた奴。
一体誰だ。
出てこい!ゴルァ!!
1年が12ヶ月あるワケ
地球が一回転するのに必要な時間=24時間が1日。
地球が太陽を一周するのに必要な時間=365日が1年。
全体数が決まっているのならあとは内訳ですよね。
365÷11=33と余りが2
365÷12=30と余りが5
365÷13=28と余りが1
なので、普通であれば誤差の少ない11カ月や13カ月を採用してもよいではないか。
問:なぜ1年は12カ月なの?
答え:月の満ち欠けのサイクルが1年間で12回くるから
なーるほどぉ。
いやまて。
新月から新月までは29日と12時間。
29×12=348日で365日には17日足りない。
そこで1ヶ月30日が採用されてさらに余りの分を31日とした。
うん。
理解はできるけど、月の満ち欠けというアイデンティティはどこに行ったのか。
答えはエジプトにあった。
月の満ち欠けにこだわってしまうと少しずつ季節がずれてしまう。
ナイル川の氾濫の時期を予測するため、太陽の動きを基本とする太陽暦を採用。
エジプト人たちは月のアイデンティティ捨て去った訳だ。
そりゃそうだ、命がかかってんだから当たり前だよね。
2月が28日なワケ
というわけで、1年が12ヶ月なのは了解した。
だったら2月が30日だっておかしくないではないか。
現在の暦はグレゴリオ歴、新暦と呼ばれています。
それより遡る太陽暦はユリウス・カエサル、シーザーの定めた『ユリウス歴』
シーザーは自分が生まれた7月を31日ある月に定め、それ以外の月を30日と31日が交互になるようする。
ところがさ。
元々余ってるの5日間なわけで、31日ある月を6つ作れない。
仕方がないのでもともと30日しかなかった2月を減らして29日までとした。
なんで?
31日ある月から減らせばええやん。
通説ではローマ時代、1年の始まりは3月で、最終月であった2月を調整月とするため2月から1日減らしたのだそうですが…
私、ちょっと疑問に思いました。
だって、シーザーは自分の定めたユリウス歴から1月1日を1年の始まりとしているのです。
最終月で調整する理屈は理解できますが、だったら12月に調整すれば良いこと。
ワタクシ、歴史はニガテだし、ユリウス・カエサルという人物に何の思い入れもないのだけど、とっても人間くさい人だったというイメージなのですが違いますか?
「ぽっくんのお誕生日だから7月は31日にするのだ!」
という発想で決めるくらいですから、
「アイツ嫌いだから、アイツの誕生月の2月から減らしちゃえ」
くらいのしょうっもない理由だったのかもしれません(?)
さて、そんなシーザーが亡き後。
乱れた暦をアウグストゥス帝が修正しました。
ところがこの人も
「ボクちんの誕生月も31日ないとダメだよね~というわけで8月も31日!」
なんて言い出してそれ以降の月を30日と31日を交互に配置しました。
そうするとまたもや数が合いません。
(指折り数えてみてね!)
じゃあまた2月減らしとこ。
というわけで2月は28日になったのだとか。
どんだけ嫌われてんの、2月生まれの誰か!? ←ただの想像
弱きを叩くじゃないですが、一度奪ったところからさらに奪うってどういうことだ。
権力者ってそういうもん?
その後、暦のずれが表れたため、ローマ教皇グレゴリオウス13世が実際に合わせたものが現在世界中で採用されているグレゴリオ歴、ユリウス歴に対して新暦といわれる暦なのです。
暦についての情報はこちらの記事を参考にさせていただきました。
正直、電卓を叩きつつ一生懸命考えていたのだけど、こちらの記事を読んですべて解決してしまいました。
より詳しい、そして個人の感情抜きの情報が知りたい方はぜひ、読んでみてくださいね。
日本での導入理由
2月が28日までになってしまったのローマのワガママ皇帝たちの仕業ということは了解した。
偉い人たちは変なコダワリは理解しがたいが。
もしも平成の次の時代の天皇が
『ボキの誕生月だから2月は31日にするぉ』
などとTwitterに投稿したら…
いやいや。
2月23日を祝日にするしないで真面目に議論している現代ですもの。
そんなワガママはまかり通らんのです。
では日本は何だって新暦を導入しちゃったの?
元々、ユリウス歴という意味ではなく『旧暦』という言葉があるのだ。
日本は日本独自の暦があったはず。
当時の参議であった大隈重信の『大隈伯昔日譚』に記録されています。
日本の新暦導入はかなり強行だったようです。
これまでの太陽太陰暦を廃止して1872年(明治5年)12月5日を明治6年1月1日としました。
改暦の公布は明治5年11月9日(新暦でいう12月9日)。
つまりたった3週間ほどの強行劇だったわけです。
翌年の暦は、旧暦10月1日に販売開始の習わしだったので、すでに制作販売してしまったカレンダーはほとんど返品、作り直し。
相当な損害が出たようです。
業者さん、気の毒。
なぜこれほど強行したのかというと、それまで日本が使っていた太陽太陰暦は4年に1度のうるう年ではなくうるう月だったのです。
つまり、たまに1年が13ヶ月になるのです。
そしてその少し前に官吏(公務員)の『月給制』を導入していたため、このままいくと1ヶ月分余分に給与を払わなければいなくなってしまう…!
ついでに12月は実働2日しかないため12月の給与支給をなかったことにしてしまおう。
新暦を採用すれば2ヶ月分もきを払わなくてよくなる上に、同時に週休制度を導入すれば年間50日も休日を減らせるという…
なんたるブラック!
まぁね、それだけ当時の財政が困窮していたということでもあるのだけど。
ローマ時代に比べるとなんとも現実的な事情であることか。
時代の変換期を生きるって、何かと苦労はつきものなんだなぁ。
文句言ってごめん。
あぁ、このまま目をつぶって耳を塞いで四月までやり過ごしてしまいたい…
雪消月の月末に思うのでした。