バリキャリ乙女のイド端会議室

主に婚活、時々しごと。華麗なるバリキャリの脳内会議の一部始終。

『なんでもいい』と言う理由

こんばんは、年間300日スーツで過ごす女、バリキャリ乙女のイシイド マキです。


デートやごはんの献立で、『なんでもいい』と言われるのが一番困るといいますね。


『なんでもいい』って言ったくせに連れていったお店にケチをつける。


毎回聞くたびに『なんでもいい』、毎回考える身にもなってほしい。


うん、確かに確かに。
では、今日はその『なんでもいい』について考えてみましょう。


人はなぜ『なんでもいい』と言うのだろう。


明確なビジョンはあるか?


美容院にて。
隣のイスからこんな声が聞こえてきました。


「こっちの写真みたいなシルエットなんだけど、もうちょっと…


「この辺りから立ち上げる感じだったらどうですか?」


「それだと…ここがキュッとしちゃいますよね?
もうちょっと大きいカールにしたいんで、これより細いロットを使っちゃうとパーマ感が強くなるじゃないですか。
それはイヤなんで…


「じゃ、この辺りから大きめのカールになるように(パーマを)かけていきますんで」

 


え?
美容院ってそんなに綿密に打ち合わせするもんなの?
私なんて


「イシイドさん、今回は根元だけでいいですよね?」


「はーい、お願いしまーす」


くらいなもんよ。


彼女には明確なビジョンがあったのだろう。
けど、あんなに数ミリ単位のオーダーをされたら大変だろうなぁ。
髪型なんて、風も吹けば寝ぐせだってある。
常に日々違うものだと思うんだけど。
何より自分で再現できなければストレスになるでしょうよ。
美容師さんとしては、ぜーんぶお任せ!のイシイドとどっちが楽なの?
聞いてみたかったけど、ご本人目の前ではさすがに聞けませんでした。

 


『なんでもいい』と答える理由


さて。


『なんでもいい』と答える理由は『明確なビジョンがないから』である。


それは簡単に想像できますよね。


美容院の彼女のように、明確なビジョンがあれば『なんでもいい』なんて言うはずがない。
だけど、果たしてそうだろうか。

 


『愛』のある『なんでもいい』


例えば今日のデートはロブションでディナーを食べたい。
バカラのシャンデリアの下で、モンラッシェで乾杯したいの。
フォアグラも捨てがたいけど、気分は伊勢海老かな。
華やかなデセールも楽しみね。

 


なんてガッツリ明確なビジョンがあったとする。
言えるか?
言えるわけがないよねー。
そんなアツカマシイこと。
お相手さまのお財布事情を慮ったのか、金のかかりそうな女だと思われたくなかったのか。
そこら辺は腹黒度合いによるのかもしれないけれど、思い描いたビジョンを恥ずかしげもなく公言できるというのはある種の才能で、誰もが簡単にできることではないのだ。


ではもうちょっと共感を得られそうなヤツを。

 


「まみちゃん、ごはん何が食べたい?」


「ええっと…(なんとなくカルボナーラが食べたいかなぁ。あっ、だけどこう君和食の方が好きなんだよね。もしかしたらしょうが焼き定食とかの方がいいのかも…こう君って優しいから、私がカルボって言っちゃったらイタリアンになっちゃうよね。やっぱりしょうが焼き定食が食べたかったなぁなんて思わせちゃったらかわいそうだし…)


「まみちゃん?」


「えっ、あっ、な、なんでもいいよ(こう君の好きなものなら)…」


みたいなやつ。
ザ・遠慮。
もしくはあなたに嫌われたくないキモチ。


同じ『なんでもいい』だけど、もうちょっと伝え方があったのかもしれないけど、そこにはあなたを気遣う『愛』がある。
そんな『なんでもいい』だってあるのです。

 


学校給食の功罪

ただ、まぁ、実際には明確なビジョンがないままに『なんでもいい』と言っていることがほとんどです。
元々、食に対してそれほど関心がなく、お腹もすいていなければ『なんでもいい』となりがちです。
イシイドはね、これって学校給食に責任があると思うのよ。


学校給食って素晴らしい。
子どものために、子どもに必要な栄養をバランスよく取り入れ、尚且つ飽きさせないように最低でも1ヶ月の中で献立が被ることなく、工夫と趣向を凝らして組み立てられている。
時には旬を意識し、時には郷土の歴史に触れ、また時には世界中の名物料理も学べるという…


完璧すぎじゃん!


食育という言葉があるけれど、教育現場だからこそできる、有り余る子どもたちへの愛情を感じずにはいられません。
私たちはそういうものを食べ、育ってきたのですね。


ところが一方、これだけ上膳据膳では自分では何が食べたいのか、何が必要なのかを感じとる感覚が鈍くなってしまわないだろうか。
充分過ぎるものを与え続けられることで、享受する側の見る目(舌ではない)ばかりが肥えていくのではないか。


与えられることが当たり前。


「何が食べたい?」と聞かれて「なんでもいい」と答えられるのは、食に対してハッキリとした希望を持たずとも、これまで満足してしまってきたからだ。
『なんでもいい』と言って饗されたものが違ったとき、希望を持っていなかったにも関わらず腹を立てるのは、『与えられる食事では満足することを前提としているから』ではないだろうか。


もちろん学校給食を批判するつもりはない。
私たちは学校給食で『食事の楽しさ』を充分に学ばせてもらったのだから。
だけど。


大人になってツクヅク思う。


自分が何を欲しているか、正確に理解している瞬間がいかほどあるだろうか。
与えられるものに対してもっともっとと貪欲になるのに、本当に求めているものは別のところにあったりする。
それは特に恋愛の、もしくは家族の間柄で起こることだ。
たかが食事。
されど食事。


もしかしたら、こじらせ達の根っこには学校給食がある。


そんな新たな発見を胸に、次回に続くのであった。