星野源さま
紅白出場、誠におめでとうございます。
夏に発売されたシングルは『Family Song』『肌』と、家族愛に溢れるものでした。
ファンとしては「もしや結婚が近いのでは?」とヤキモキいたしますが、すてきな楽曲をいつもありがとう。
アルバム、たのしみにしております。
年間300日スーツで過ごす女、乙女イシイドです。
ここ3日ほど、星野源の『肌』が脳内リピートしております。
いい曲ですね (゜▽゜*)
そんな歌詞にありますけれど、『ふれあうだけで』人は分かりあえるのか、そんなことを考えてみました。
触れてほしかった
触れる、といえばマッサージ。
イシイドはリフレクソロジー大好きです。
ごめん、カッコよく言ってみた。
足ツボです。
足の裏には反射区といって体の一部に対応する場所が決まっています。
例えば目の反射区は人さし指と中指のつけ根。
目が疲れているとここがゴリゴリするし、ほぐしてあげると目の疲れも解消します。
セラピストさんには何でもお見通し。
「肩コリがひどくて」とお伝えしたところ、「腰の方が悪いですよ~」なんて言われたことがあります。
その二週間後、ヘルニアが発覚しまして。
肩コリは腰に原因があったことが証明されました。
少し前にも首が痛くてマッサージを受けたんですが「首のツボを押したらドワーッと(コリが)流れていきましたよ!」なんて言われてしまったり…
え?
そうじゃないだろって?
ですよねー
そういう話じゃないよね。
イシイドは少し前に、異常なくらいマッサージに通いまくってた時期があります。
この頃。
時間のある限り通い、足ツボから徐々に刺激の強いオイルマッサージ(パンいちで受けるようなやつね!しかもお高い!!)にまで手を染めました。
なんでそんなに?
思えば一番、根をつめて婚活していた時期で、そしてうまくいかなくなり始めた頃でもありました。
ただ、私のカラダに触れてほしかった。
欲求不満とかじゃなくてね。
だれか、私じゃない誰かに『あなたはちゃんとここにいるよ』と確認してほしかったのだと思います。
眠れぬ夜は
その頃はあまり眠れなくもなっていました。
眠っても目が覚める。
寂しくて不安で眠れなくなることは誰にでもあることだと思います。
いっそ、大声でわんわん泣ければいいのに、そこまで取り乱すこともなく、ただ、何度も寝返りをうったりしながら時間だけを過ごしていく。
そんな時は一度起き上がってみてほしい。
肩や背中にお布団やブランケットをかけて、壁にもたれかかってみてください。
膝は抱えてもいい。
温かい飲み物を用意してもいい。
目は開けていても閉じていてもいい。
ただ、まんじりともせず横になっているよりはココロが落ち着いてくるような気がしませんか?
横になっているとなんだか投げ出されたような気持ちになります。
でも、背中が柔らかく支えられていると『自分はここに存在しているんだな』と実感できるのです。
背中を支えてくれるのが、誰かの背中や胸ならば尚いいのだけれど。
それが叶わないなら、壁だっていいのだ。
何かに支えられている実感が涌くのなら。
人は誰しも『愛されたい』とか『選ばれたい』という思いを持つものです。
でもそれは当たり前のことのようで、実はとても上の次元のお話なのです。
本当にギリギリのところまで追い詰められると自分という『存在』自体が揺らぐのです。
婚活とか就活とか、人から選ばれようと行動している時に、思うような成果が得られないと『焦り』が出てきます。
そして一所懸命、もがいたりすがったりするのです。
でも、それでもダメで、それすら通り越してしまうと『虚無感』に変わります。
こんなに活動しているのに、なぜ成果が得られない。
もしかしてこの人たちに私は見えていないんじゃないだろうか。
私って存在してる?
もしも私のカラダが透明だったら。
どうやって『私の存在』を証明したらいいのだろう。
自分で自分が分からなくなってしまったら、もう誰かに証明してもらうしかなくなるではないか。
だから、誰かに、何かに『触れてほしい』
んで、結局何が言いたいかというと
『ふれあうことで分かりあえるか』という問いに対して。
『触れて』分かることなんて、『相手がそこに確かに存在している』ということだけ。
『気持ち』や『感情』はちゃんと『ことば』にして伝えなければ伝わらない。
そして『ことば』だけ幾ら重ねてみても、そこにその人が『不在』であれば何も変わることはないのです。
『触れて』『語り合う』から伝わるの。
横着はしちゃダメです。
そういう意味では『お風呂』って最高かもしれませんね。
いや、私はビオレさんの回し者じゃないですよ。
そういえば。
最近、ワタクシ存在確認のマッサージに出かけていないかも。
バリキャリ、アラフォー、イシイドマキ。
婚活して、『彼氏』ができました。