バリキャリ乙女のイド端会議室

主に婚活、時々しごと。華麗なるバリキャリの脳内会議の一部始終。

語彙力を伸ばすべきか感受性を磨くべきか

こんばんは、年間300日スーツで過ごす女、バリキャリ乙女のイシイド マキです。


先日、ぼへーとTwitterを眺めていた時のこと。
こんなツイートを見つけました。

 

 

twitter.com

 
うんうん、語彙力。
喉から手が出るくらいほしいよね。
イシイドは吸い寄せられるようにその記事のページを開いておりました。

 


『ヤバい』という言葉を使うとき


執筆者の一之瀬ほたるさんは、面識はありませんがフォローしてる方のいいねやリツイートで時々お名前はお見かけしていました。
まだ20代のお嬢さんということで、アラフォーのイシイドにはやはりギャップを感じるようなことになるのかしら?


記事の趣旨としては語彙力を身につけて表現力の幅を広げたいというもので、軽やかな文体が小気味よい。
記事を読んでいく中で気になるところを見つけました。

 


私は何でもかんでも『ヤバい!』で片付けてしまうクセがあります。


美味しいものを食べて『ヤバい』
綺麗な景色を見て『ヤバい』
疲れたときにも『ヤバい』


ぶっちゃけこの一言で完結してしまうんですよね。ヤバいの多様化です。ヤバいって言っときゃなんとかなるだろみたいな(笑)


ほっほっー。
だってさ、イシイドは『ヤバい』って使わないからさ。
あ、いや、『アタクシはヤバいなんてコトバは使いませんことよ、ほほほ』なんてスカしたことを言いたいのではありませんよ。
こういう場面で『ヤバい』と表現するのを聞いたことはある。
少し前にやってたスカパーのCMもそんなシナリオだったし。
だけどイシイドはこういう場面で咄嗟に『ヤバい』は出てこない。
違和感があるんだな。

 


イシイドが『ヤバい』と言うときは


私が『ヤバい』と使う時は、時間的に差し迫っているときでしょうか。


「あー、遅刻しそう。ヤバいなぁ」


「これ、締め切りに間に合わないんじゃないの?ヤバいぞ」


とかね。
あとは街中で奇声を上げるパリピの集団に出くわしたらヤバいと思うだろうな。


うーん。
何かしら、自らに危機を感じる場面でなら感覚的に『ヤバい』と感じることができるみたいだ。

そういう意味では一之瀬さんのいう、3つ目の疲れた時はなんとなく理解できる。


美味しいもの食べた時や綺麗な景色を見たときはどうだ?
うーん、美味しいものは私に危害を加えないからなぁ。
『ヤバい』とは思わないか。
だけど、


『このケーキめっちゃ美味しい!
あー、無限に食べられるわ。
糖尿病とかなったらどうしよ』


ぐらいに掘り下げたら命の危機は感じるかも。


綺麗な景色も危害は加えないけど、高い高い崖の上からの眺望だったりしたら。
足元がふっとなくなって深い深い谷底へすぅっと吸い込まれてしまいそうになる感覚を恐怖と感じるかもしれない。
それから満開の夜桜を見上げたときにさわさわと揺れる花びら達が急に大きなうねりとなって飲み込まれてしまうんじゃないだろうかなんて不安に教われることだってある。
そういう意味では、美しい景色も恐怖を内包しているといえる。


だけど、一之瀬さんが感じる『ヤバい』とは、そういうことじゃないんだろうな。

 


両者の違いは


『ヤバい』という言葉の語源は諸説あるようだし江戸時代からとも平安時代からともいわれていてはっきりしていない。
ただ、最近の辞書では、元々『不都合』を表す意味であったところから若者の間で『不格好であること』の意味に転じ、90年代くらいから『凄い』の意味でも使われるようになった、と明記されるようになった。


『ヤバい』=『凄い』は公式なのである。


『ヤバい』を使うこと自体恥ずべきことではないということをまず言っておきたい。


ではイシイドが感じる違和感の正体はなんなのだろう。
それは『時間』だ。


一之瀬さんやスカパーのCM的な『ヤバい』は『そのものに触れた瞬間に感じる衝撃』だ。
良いものも悪いものもインパクトを感じるのは接したその瞬間。


一方、イシイドがインパクトを受けたと感じるのはもっと遅い。
いわゆるジワジワくる感じ、なのだ。


インパクトを受けて、瞬時に『ヤバい』が出てくるということは感受性の瞬発力が高いということ。
もちろん、若者たちの間でも『ジワる』という言葉が使われるように、インパクトを時間をかけて受けとることだってあるだろう。
だけどそれはイシイドの感じる『ジワジワ』よりもずっと短い時間じゃないだろうか。
つまり若者たちは感受性においてスピード感を求めているということなのではないだろうか。

 


若さと時代と


さて、一之瀬さんは表現者であることからこういった感受性の感度はかなり高い人なのだと思う。
そこのところを差し引いても、やはり若い人の方が感度も反応も良い。
だが、我々、我々の緒先輩方が若者であった頃どうだっただろう。


音楽だったり演劇だったり、絵画だったり小説だったり。


興味の向く先はいつの時代でも同じだった。
後世に残る作品の数々は学生のサークルやサロンや同人誌から発生していることも多い。
(ブログサロンとか副業サロンとかはちょっと違うと思うけど)
だから、感受性の感度が悪いなんてことはないはずだ。
ただし、表現の場というか方法が変わって今はSNSや動画が主流になった。
発表されたらすぐさま反応しなければ乗り遅れてしまう。
今の若者のスピード感はこういうところで培われていて、我々の世代ではこれから身につけることはなかなかできることではない。
逆に常に反応を急かされているという点では気の毒だと思うけれど、うらやましいことでもある。


語彙を尽くして語ることはいつからでもできることだが、直感的に想いを表現できることの素晴らしさは、少々大人になりすぎた私には曲芸に近いものがある。
どうか、その感覚をなくさぬまま大事にしていってほしいと思う。

 


平成最後の年の瀬だから。


なんだか『時代』なんて大きなものを語ってみたくなったりしたのでありました。